我々の大学時代の「微生物薬品化学」 研究室の教授であった水野伝一先生 (97歳) が最近 (11月の誕生日を前にして) 、鎌倉の自宅で他界されたことを、同級生からのメールで知った。 悲しいと思うと同時に (ご家族、特に芸大出身のご令嬢による長期の看病を考えると) 安堵の気持ちが頭をよぎる。実は、(あの頭脳明晰な) 先生が80歳の誕生日を過ぎる頃から、重度の認知症を煩い始めたことを、家族の皆様から聞いているからである。 趣味のテニスと油絵を楽しみながら、自宅近くの老人ホームで余生を 「無邪気に」 過ごしていると数年前に伺っている。 その頃には、もう家族の見分けも殆んど着かなくなっていたと言う。。。
私自身の先生とのお付き合いは、大学の教養学部を一年半、駒場キャンパスで過ごした後、本郷キャンパスに移って、薬学を専攻し始めた時点 (1964年秋) に始まる。 先生から(当時、最先端の) 「分子生物学」 なる学問を教わった。 DNAの3次構造、遺伝子の発現メカニズム、蛋白質の合成されるメカニズムなどを、最も単純な微生物 (大腸菌) などをモデルにして勉強した。4年時に丸一年間、卒業実習を幸い先生の研究室に配属されて、実験を始める機会を得た。 私が先生の研究室を選んだ最大の理由は、「生物学なら何をやっても良ろしい」という先生のユニークなモットー(自由主義) が気に入ったからである。 私のめざした研究人生の目標は、副作用のない抗癌剤を開発することだった。そのためには、先ず細胞がいかに増殖するかを学ばねばならなかった。そこで、最も単純な大腸菌の蛋白合成メカニズムを、先ず修士論文のテーマに選んだ。次に哺乳類(マウス) の貪食細胞(マクロファージ) による自他の認知メカニズムを博士論文テーマに選んだ。この6年間の研究生活で、 最も印象深かったのは、先生の音頭で、分子生物学に関する「標準実験法」というユニークな本を教室員全員で編纂したことである。 この実験法は我が微生物研究室の言わば 「宝」 となった。もう一つは、先生自ら編纂した「我が研究室員に与えうる書」だった。 いわゆる「伝ちゃん語録」だった。先生のことを、我々研究室員同志では 「伝ちゃん」 と呼ぶ習慣があった。 それほど、先生と我々は近しかった。
先生自身の研究は、マウスを使った動物実験で、抗癌剤をスクリーニングすることだった、そのプロジェクトで研究室に入ってくる研究助成金と先生自身のポケットマニーで、2人の秘書の給料と40名近い院生や研究員の研究費をまかなっていた。
大学内で研究室に2人の秘書を雇っていたのは、当時でも極めて珍しい。 先生曰く、「研究に邁進せよ! お嫁さんの候補は秘書から先ず選びなさい!」。私の先輩や後輩で、研究室の秘書たちを結婚相手に選んだ例は数知れない。 もっとも、研究室員の大部分は男性だったから、競争率は極めて高く (20人に一人!) 、秘書の新陳代謝は激しく、2、3年でどんどん入れ替わっていった。。。 勿論、私自身には、渡米するまでの7年間、秘書とデートするチャンスなど全くなかった。
助手を一年間勤めた後、私が渡米のために研究室を後にしたのは、1973年の夏休みだった。 それから10年ほど経ったある夏の日に、西独のミュンヘン郊外にあるマックス=プランク研究所の私の研究室に突然、先生から電話がかかってきた。隣国オーストリアのザルツブルグからの電話だった。(娘さんから入手した切符で) 有名な音楽祭を楽しんだ直後で、 列車でミュンヘンに向かうから、駅まで出迎えに来てくれたまえ。 お土産があるよ」 という内容だった。どんな土産だろうと、想像を巡らしながら、駅に出迎えにゆくと、先生が若い白人の女性と同伴だった! スザンヌ=クナーベというドイツ系のアメリカ人だった。ニューヨークで学校の教師をやっているそうである。 3人で駅前の食堂にてランチを食べた後、先生は帰路、空港に向かった。 「このお嬢さんを君に預けるから、一緒にハイキングや観光を十分楽しんでくれたまえ」 という言葉を残して。。。秘書とデートする暇がとうとうなかった私のために、スザンヌをザルツブルグの駅頭で見つけて、わざわざ "ミュンヘンまで2時間の寄り道" を先生はしてくれたのだ。
振り返ってみると、我が"微生物"研究室の院生の中で、私ほど先生から個人的にお世話になった者はいないような気がする。 そして、先生の長い夢でもあった 「抗癌剤の開発」 を実際に引き継いた者は、私自身を含めてほんの少数だった。 だから、私が生きている内に PAK遮断剤 「15K」 (モーツアルト"H") などを 「副作用のない抗癌剤」 として、できるだけ早期に市販したいものである。 先生はまぎれもなく 「教育者の鏡」 だったが、私自身はせめて 「研究者の鏡」 になりたいと志している。
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