2019年2月25日月曜日

Barry Sharpless 教授 (Click Chemistry 発明家) :
アメリカ化学会から「Priestley」賞を受賞!



 プリーストリー賞 (Priestley Medal) とは、「アメリカ化学会」 (ACS) が授与する最高賞。化学分野における卓越した業績に対して贈られる。1774年に酸素を発見し、1793年に米国移住した英国人化学者「ジョゼフ・プリーストリー」の功績を讃えて創設され、1922年から現在まで続いている。当初、三年に一度であったが、1944年から毎年となった。  (私自身の古い記憶では、フランスのラボアジェが「酸素の発見者」?)* 。

米国に移住したプリーストリーは、1797年に英国風のマナー・ハウス(manor house) をピッツバーグのノーサンブランドに建てた。1874年、プリーストリーによる酸素の発見 "100周年"を祝した記念の会が、この家で開催。ここでそれまでの100年間の化学に対する米国の貢献を祝そうということだった。これが全米の化学研究者の最初の集いとなった。2年後の1876年に「アメリカ化学会」が発足した。

歴代受賞者の中には、ノーベル化学賞と平和賞をもらって有名になったライナス=ポーリンが1988年に「Priestley」賞を受賞している。受賞者の中には、日本人の学者の名前は皆無。恐らく、「アメリカ化学会」の会員でないと、受賞の対象にならないのだろう。。。

その昔 (学生時代)、私は日本生化学会に属していたことがあったが、会費を毎年払わされ、(読みたくもない会報を毎月受け取るだけで) 実利が余りないので、海外留学に伴って、会費を払うのを辞めた。 以後、「学会」という名のつく団体に属するのを極力避けてきた。過去半世紀に渡って、何度も専門分野を変える (「境界領域」=グレンツゲビートを歩む) 学者 なので、どこの学会にも属していない、言わば「浪人者」である。

私自身は有機化学者ではないので、その賞については、実に疎く、今回が「初耳」である。 私がこの受賞に注目した最大の理由は、「Click Chemistry」(CC) の発明者であるBarry Sharpless 教授 が今回受賞者になったからである。 彼は2001年に、光学異性体に関する研究で、ノーベル化学賞を野依良教授 (名古屋大学) とシェアする直前に、「Click Chemistry」という銅を触媒とする効率の高い化学反応を (MIT で) 発明し、論文にした。 その後、様々な研究者たちが、この反応を駆使して、2種類の化合物を効率良く結合させるのに成功した。 その成功例は、PUBMED に記録されているだけでも、7500 例 ほどある!

さて、我々自身がこの反応の存在を初めて知ったのは、2013年に発表されたインドの有機化学者による論文に、その2年後に出会ったことにある。この論文で、ウルソール酸 (UA) という天然PAK遮断剤の抗癌作用を、CC を介するエステル化で、200倍に高めることに成功したことを知った。そこで、その手法をそっくり利用して、プロポリス成分であるARC やコーヒー酸のエステル化に成功後、人工鎮痛剤である「ケトロラック」が、実はPAK遮断剤であることを知って、そのCOOH 基をエステル化して、その抗癌作用を 500倍以上、高めることに成功し、CC の「ギネス記録」を見事に樹立した!  そのエステルが我々の誇る「15K」である。 そこで、Barry Sharpless 教授の受賞を祝って、目下一筆、ある英文 (医化学) 雑誌に頼まれて、CCに関する短評「 Click Chemistry (CC): Revolutionary Approach for Boosting Cell-permeability of COOH-bearing Drugs」を投稿中。。。


私自身の考えでは、彼のCC発明が、(近い将来) 2度目のノーベル受賞に価する価値を持つと確信している。

 (注):  アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは、パリ出身の化学者、貴族。質量保存の法則を発見、酸素の命名、"メートル法" の採用、フロギストン説を打破したことから「近代化学の父」と称される。

1774年に体積と重量を精密にはかる定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという"質量保存の法則"を発見。また、ドイツの化学者、医師のゲオルク・シュタールが提唱し当時支配的であった、「燃焼は一種の分解現象でありフロギストンが飛び出すことで熱や炎が発生するとする説(フロギストン説)」を退け、1774年に燃焼を「酸素との結合」として説明した最初の人物で、1779年に酸素を「オキシジェーヌ(oxygene)」と命名した。不幸にして、1794年に革命政府により処刑された。天文学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とラヴォアジエの才能を惜しんだ。

しばしば「酸素の発見者」と言及されるが、酸素自体の最初の発見者は、イギリスの医者ジョン・メーヨーが血液中より酸素を発見していたが、当時は受け入れられず、その後1775年3月にイギリスの自然哲学者、教育者、神学者のジョゼフ・プリーストリーが再発見し、プリーストリーに優先権がある。なお、プリーストリーは酸素の発見論文を1775年に王立協会に提出しているため、化学史的には "プリーストリー" が「酸素の発見者」である。



2019年2月9日土曜日

マッカーサーによる日本統治2000日: その功罪

(法政大学教授) 袖井林二郎著「マッカーサーの二千日」(中公文庫、1976年) によれば、日米(太平洋) 戦争の勝利者「マッカーサー元帥」(日本占領連合国最高司令官) が65歳で、日本の厚木飛行場に降り立ったのは、終戦から2週間後の1954年8月30日。以後2000日間、昭和天皇を含めて日本国民の上に「君臨」する絶対的な支配者となった。 しかしながら、(南北) 朝鮮戦争の最中に、北鮮に対する「原爆使用」発言をきっかけに、トルーマン大統領に罷免され、1951年4月16日に羽田飛行場を発って、米国に帰国した。

我が家の評価によれば。マッカーサーは「偉大な政治家」 (「アメリカ製のシーザー」と言う異名) だったが、軍人としては、北大西洋戦線でナチス=ドイツを相手に活躍したアイゼンハワー元帥 (後の米国大統領) に比べると、(勝利者ではあるが) 余り成功したとはいえない。しかしながら、敗戦後の「日本の民主化」にとっては、極めて貴重な (掛け替えのない) 存在だった。 特に、戦後に制定したいわゆる「マッカーサー憲法」は、戦争放棄宣言、女性の参政権を含む民主的な選挙制度、言論の自由、財閥の解体など、マッカーサーでなければできなかった平和的かつ民主的な憲法だった。幸い、この憲法は、戦後70年余り、改悪されずに原型を保っている。 

マッカーサーは2000日の日本統治に、昭和天皇を巧みに利用した。「 国民の象徴」と称するわけのわからぬ (英国の女王に近い) 権威を天皇に与え、この象徴を、実質的な支配者である「マッカーサー」と被支配者である「日本国民」との間に、緩衝帯 (クッション) として設けた。 従って、国民からの不満は直接マッカーサーには向かわなかった。 全て、天皇(隠れ蓑あるいは副官) に吸収させる仕組みにした。敵ながら「あっぱれ」である。

しかしながら 、朝鮮戦争では、大失敗だった。 それが失脚の最大要因になった。軍事的な作戦に失敗したばかりではなく、トルーマン大統領の苦しみを理解していなかった。終戦直前、広島と長崎への原爆投下を直接命令したのは、大統領であり、マッカーサーではなかった。命令を下した大統領は後にそれを後悔した (悪夢だった!)。 それを悟らなかった鈍感なマッカーサーは、苦しまぐれに、北鮮や中共に対する原爆投下を 提案したのだ。 そこで、悩める大統領を大いに怒らせた。万事休すだった! 

さて、マッカーサー無きあと (つまり2000日の占領期間が終了後)、 日本には、「国民の象徴」たる天皇の存在は、実はもはや必要なくなった。 あれはマッカーサーにだけ必要だった。本年には、平成天皇が老齢のため生前退位する予定になっている。 次期天皇の名前は未だ一般には公開されていないようだが、そろそろ(象徴) 天皇制度を廃止すべき時期が来つつあるような気がする。。。 天皇家を、自分の意見を自由に表明できる (一人前の) 民間人にしてやりたい。そういう意味で、1-8条の改憲 (削除) を支持するが、第9条は絶対に保存すべきである。

「マッカーサー憲法」中で、第 "9" 条 (戦争放棄) に加えて、「男女同権」を強調した第 "24" 条がユニークな存在である。 戦前の日本では、女性に参政権がなかった。そこで、日本で育ったオーストリア生まれの米国女性 (ベアテ=シロタ) が、1946年にマッカーサーのGHQ による日本国憲法の作成チームに僅か23歳で加わり、第24条に「男女同権」の項を設け、「女性の参政権」を保証せんとした。 当時の日本政府は、その項に強く反対したが、マッカーサーらの裁断で、無事通過した。 私は彼女の自伝「1945年のクリスマス」(1995年) を通じて、女史と懇意になり文通を続けたが、 2012年12月末、女史は「膵臓がん」のため、89歳で、ニューヨークの自宅で亡くなった。

 女史の自伝によれば、GHQ による当初の憲法案では、国会は「一院制」だった。 ところが、日本政府側の要求で、結局GHQ側が妥協して、衆議院と参議院の2院制になった。しかしながら、それから70年以上経った今の国会の現状を見ると、「一院制」で十分であるように、私には思える。 何故かと言えば、参議院は衆議院の事実上「二番煎じ」に過ぎなくなっているからだ。 (米国の上院にみられる) 「参議院らしい特徴」が全くない。 精神年令「12歳」(あるいは18歳) の有権者や政治家には、2院制をうまくこなす知恵が未だ浮かんでいない!

実は、マッカーサーの有名な発言 (日本人12歳論) に関して、"誤解" があった。記者会見で 「科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみれば、アングロ=サクソンもドイツ人も45歳の壮年に達しているが、日本人は未だ12歳の少年である」と語った。著者によれば、この発言は、日本文化の将来への「伸びしろ」を讃えたのであるが、多くの日本人は、誤解し、かつ憤慨した。 忽ち「マッカーサー記念館」の日本での建設計画は立ち消えになり、GHQ があった第一生命の執務室が「マッカーサー記念室」として保存されるに留まった!  さて、70年余年後の現在、日本文化は果して、何歳までに成長発展しただろうか?  最近のトランプ大統領や英国のEU離脱を巡るゴタゴタを見る限り、アングロ=サクソンは老化の一途を辿っているようだが。。。

 さて、1951年4月に日本統治の任務から外されたマッカーサーは、翌年11月の米国大統領選挙の共和党候補の一人として立候補したが、共和党の予備戦で (昔の部下であった) アイク=アイゼンハウー将軍に敗れ、政界から引退した。 日本統治に成功した「シーザー」(独裁者) も、(民主主義国家) 米国では通用しなかった。「老兵は消え去るのみ」だった!

 客観的に観れば、勝負の行方は選挙前から明白だった。「アイク」は、全ヨーロッーパを独裁者ヒットラーから解放した英雄だった。 大戦中に欧州から米国に逃れてきた移民たちが、彼の熱烈な支持者になった。マッカーサーの支持者は、恐らく (真珠湾攻撃を受けた) ハワイ州住民に過ぎない。 極東における日本統治の功績は、米国有権者の関心外だった。。。

最も皮肉な現象は、(ソ連による極東への進出を防ぐ) マッカーサー統治下で、毛沢東による中共 (中国共産党) 政府が樹立される直前 (1949年夏)、下山事件、三鷹事件、松川事件などを通じて、一連の弾圧を受けたはずの革新派 (特に共産党) の政治家が「護憲」 (マッカーサー憲法を擁護する) 側に回り、統治下で甘い汁を吸い続けた保守派 (自民党など) が憲法の「改悪 」(つまり、第9条の削除) を図っていることである。

2019年2月6日水曜日

「癌との戦い」 か 「無知との戦い」か?

1972年の11月に共和党のリチャード=ニクソンが大統領に当選し、翌年1月に年頭教書演説を米国下院で行なった。その内容の中で、最も印象的だったのは、「癌との戦い」を強調して、癌研究に大きな予算を計上するという方針だった。 それから既に半世紀近く経って、強力なPAK遮断剤「15K」などの開発という形で、その戦いがほぼ終了したように、我々には思える。

ところが、本年のトランプ大統領の年頭教書によれば、「癌との戦い」(癌研究) を再び優先すると強調  (実は、米国からのあるメールで、その事実を私は初めて知った) !  呆れて、物も言えない!   何んと馬鹿 げた (無知な) 大統領を米国の有権者は、いつまでも抱え込んでいるのだろうか? 

これから、約2年間弱 (2020年秋の次期大統領選挙まで) に最も緊急に必要な国家的プロジェクトは、実は「無知との戦い」、つまりトランプ大統領とその支持者たち (無知な、かつ教育水準の低い人々の集まり) を再教育して、「先見の明」のある指導者を、次期大統領に選出する下地を作ることである。 メキシコと米国との国境に「万里の長城」を築くという、前時代的な構想しか持てぬ大統領は、もう「お払い箱」である! 

私は個人的には、保守的なニクソン大統領を余り好きではなかったが、彼には、「癌の研究」振興や中国への門戸開放など、確かに「先見の明」があった。これは大いに評価すべきである。 それに比べて、トランプ大統領は「人間のクズ」である。それにオベッカばかり使っている安倍首相も「人間のクズ」に近い!  そのような無知な総裁を支える「衆愚政党」をいつまでものさばらせる (日本の) 無知な有権者たちを、(できれば) 緊急に再教育する必要もある。いわゆる「ゆとり教育」のおかげで、特に「若い世代」が馬鹿になりつつある。。。

(PAKを遮断する) 癌転移抑制遺伝子「NM23」の誘導剤

固形癌 (悪性腫瘍) の患者が最終的に死に至る主因は、癌が体中に転移することにある。従って、癌患者の延命を図るためには、先ず固形癌の転移を抑える必要がある。

さて、残念ながら、従来のケモ (抗癌剤=DNA合成や微小管の機能阻害剤など) や放射線には、癌細胞を殺す作用はあるが、癌の転移を抑える作用はない。 従って、癌患者の延命には、転移を抑制する薬剤、例えばプロポリスなどの「PAK遮断剤」の投与が必須である。 固形癌の転移には、PAK が必須であるからである。10年以上昔、我々自身の研究により、プロポリスがNF腫瘍などの転移を 強く抑えることが、動物実験で実証されている。

海外に住む私の知り合いの中に、大腸癌が転移を起こしている症例が最近見つかった。早速、プロポリスを飲むように勧めた。  しかしながら、その患者の担当医が、素直に、プロポリスの投与を許す (黙認する) かどうかは、担当医の「頭の柔軟さ」に依存する。多くの癌専門医は、(残念ながら) プロポリスの薬理作用に関して無知か、偏見を持っているからである。翁長知事のスイゾウ癌を担当した沖縄の医局が、その典型的な 悪例である。

そこで、市販されている薬剤や健康食品の中から、癌の転移を抑える作用がある薬剤を、2、3 発掘してみた。 先ず見つかったのは、奇跡の薬と呼ばれた"Gleevec" である。 この薬剤 (ABL、 PDGFR などのチロシン=キナーゼを阻害する抗癌剤) の適用範囲は、極めて限定され、厳密に言えば、CML やGIST など固形癌全体の千分の一に過ぎない。 しかしながら、2、3年前に中国のグループによって、Gleevec が 「NM23 」と呼ばれる「癌転移抑制遺伝子」の発現を誘導することが発見されていた。 ウコン由来のPAK遮断剤「クリクミン」にも、NM23 誘導作用がある。 さて、Gleevec は PDGFRを阻害することによって、最終的にはPAK も遮断する。従って、NM23 遺伝子の発現を通常、PAK が抑制している可能性がすこぶる高い!
 
NM23 遺伝子が発見されたのは、今から30年以上前 (1988年) である。米国のNIH 内にある癌研究所 (NCI) の Steep 博士らである。 さて、NM23 蛋白による癌転移抑制メカニズムについては、未だ余り良くわかっていないようだが、NM23 がPAK の上流で、その活性化を抑えているメカニズムについては、もう20年ほど昔、浜松医科大学の杉村春彦教授の研究室によって、解明されていることが判明した。 仔細になるが、発癌蛋白RAS の直ぐ下流にTiam 1 と呼ばれる蛋白が存在し、それを介して、G蛋白RAC がPAK を活性化しているが、その Tiam 1 の機能を直接阻害するのが、G蛋白「NM23 」である (1)。

 余談になるが、「NF2 遺伝子」も "癌転移抑制遺伝子の仲間" である。なぜなら、この遺伝子が欠損すると、PAKが異常に活性化し、NF腫瘍の転移を促進するからである。興味深いことには、NF2 蛋白 (メルリン) も NM23 蛋白も細胞間「Tight-Junction 」を形成するCD44  (ヒアルロン酸受容体) と結合していることから、両蛋白が、いわゆる細胞の「Contact Inhibition」(細胞同志が接触すると、増殖や運動を停止する現象) に関与している可能性が高い。なお、ヒアルロン酸はしばしば「肌の若返り」化粧品に使用されているが、CD44 に結合しTiam の活性化を促すので、発癌や癌転移を促す可能性があり、(長寿を期待する方には) 化粧品成分としてはお勧めできない。 「美人薄命」という言葉通り、ヒアルロン酸は、「悪性胸膜中皮腫」の腫瘍マーカーばかりではなく「早老症」のマーカーでもある! 

 市販の松果体ホルモン「メラトニン」にも癌転移抑制作用がある。前述したが、メラトニンは天然PAK遮断剤である。 ただし、NM23 誘導作用を調べた文献はまだない。

 参考文献:
1. Otsuki Y, Tanaka M, Yoshii S, Kawazoe N, Nakaya K, Sugimura H. Tumor metastasis suppressor nm23H1 regulates Rac1 GTPase by interaction with Tiam1. Proc Natl Acad Sci U S A. 2001 ;98(8):4385-90

2019年2月5日火曜日

自分独自の「エベレスト」を目指せ!

ヘルシンキ五輪の翌年5月に、英国の山岳遠征隊が、更なる偉業を成し遂げた。 難攻不落の世界最高峰「エベレスト」(海抜8850 m) の頂上に、遠征隊に加わっていたニュージーランド出身の養蜂家エドモント=ヒラリーとその相棒 (シェルパ) 、ネパール出身のテンジン=ノーゲイが仲良く肩を並べて到達した!  そのニュースを知った当時、私は小学4年だったが、不幸にして、新学期の4月から、小児結核の集団感染で、休学し自宅療養中だった。 登山やスキーが好きな父が、エベレスト征服を報じる写真入りの毎日新聞の一面記事をもってきて、私を励ましてくれた。「いつか元気になって、また一緒に山に登ろう!」。

まもなく、結核の特効薬「パス」が米駐留軍のPXから手に入り、いわゆる「微熱」が下がり始め、御蔭で、夏休み明けには、5カ月ぶりに復学でき、留年を免れた! 休学中の特に「算数」の遅れを取り戻すために、父が学校から (6年生までの) 算数の教科書をわざわざ取り寄せ、自宅で (算数の) 特訓をしてくれた。御蔭で、復学した時には、既に6年生の算数の教科書を卒業、(少なくとも算数だけは) クラスのトップに達することができた!  しかしながら、復学しても、激しい運動は禁じられ、体育の時間は、卒業まで、いつも校庭の隅に座って「見学」を強いられた。従って、級友と一緒に野球や水泳を楽しむ機会がなかった。 だから、(学友とは違って) 野球ファンや水泳ファンなどには、とうとうなれなかった。。。

最寄りの中学に入学してから、担任の数学教師 (田中恒夫先生) が有名な卓球選手だったので、放課後に、教室にある机や椅子を全部、片側に寄せ、卓球台を運び入れて、数名で卓球の猛練習をしたものである。当時は学校内に体育館が未だなかった。 その後、父と一緒に近くの丹沢山塊や奥多摩で登山を楽しみ始めた。中学の体操の時間に、筋力と肺活量の不足をつくづく痛感した。2か年半に渡る体育の見学で、上体の筋力が衰え、鉄棒で懸垂を試みても、ただぶら下がっているだけだった。体育の教師に「丸で、肉屋の店先にぶら下がっている豚肉のようだ」と形容された。もっとも痩せ型だったので、実際には「カモ鹿の骨」と形容した方が真に迫っていただろう。100メートルを走るのに14秒以上かかった。肺結核でおかされた私の肺は、ランニングに必要な爆発的な肺活量をもはや支えてくれなかった!  「ザトペックへの道」はとても無理だった。

高校時代には、八ヶ岳や谷川岳などに挑戦し、少なくとも足腰には、ようやく自信が出来たので、(当時は学生の間には余り知られていない) 「競歩」という長距離競技を始めた。競歩選手の大部分は実業団に属していた。 例外は市川の教師 佐藤武男) と俳優の細川俊夫などだった。 大学生は皆無、高校生は私と浦和高校のある生徒のみだった。時速10 km をめざしながら、10 km 競歩や20 km 競歩に挑戦し始めた。  (学校を長らく休学した経験のある) 私は、ある意味で「天の邪鬼」になり、他人がしないことをやるのが趣味になった。つまり、人真似をしないで、独自性を発揮することに徹するのが、我が人生の最大の楽しみになった。言い換えれば、ヒラリー卿のごとく、自分独自の「エベレスト」を捜し当て、それに挑戦、(誰よりも先に) 初登頂をめざすことである! 

大学院生活を無事終え、渡米して間もなく、「PAK」いう珍しいキナーゼを初めて発見するという幸運に恵まれた。40年以上昔の話である。 その後、その「PAK」が癌を含めて多種多様の難病の主因であることが、次第に明らかにされた。そこで、これらの難病の治療をめざして、プロポリスを含めて「PAK遮断剤」の発掘と開発に、初めて乗り出した。 明らかに、頭脳に頼る「創薬レース」は、筋力に頼る「陸上競技」より、酸素の消費量がずっと少ない!  ただし、時間 (年月) がひどくかかるから、文字通り「持久力レース」である! 

日本国内では、PAKに携わる研究グループは今のところ、皆無である。 海外でも、利根川進氏 (MIT 教授、 1987年ノーベル医学賞) の設立したベンチャー会社「Afraxis」や大手製薬会社 (Pfizer、Novartis、Roche、Astrazeneca など) 数社のみに限られている。 その先陣争いの中で、臨床に役立ちそうな「細胞透過性が高く、かつ水溶性」のPAK遮断剤「15K」を開発したのは、今のところ、我々のチームのみである。

前述のごとく、正確に言えば、最近、もう一つのチームが、別ルートで同じ頂上をめざしていることが判明。米国ミネソタ大学薬学部の (ドイツ出身の有機化学者Gunda Georg 女史 が率いる) チームが、漢方薬「雷公藤」由来のTriptolide 誘導体 (ミネライド) を数年前に開発したが、それはPAK の直ぐ上流にあたる「RAC 」と呼ばれるG 蛋白を阻害する。 従って、薬効に多少の差はあれど、「15K 」も「ミネライド」も、最終的には同じ標的「PAK 」を狙っている。

「PAK 遮断剤の市販」という独自の「エベレスト」初登頂を巡って、この両チーム (遠征隊) が先陣争いを目下繰り広げている!  ヘルシンキ五輪の水泳 (1500m 自由形) に例えれば、米国を代表するコンノ選手と日本を代表する橋爪選手との「デッドヒート」である。我がヒーローの一人、ヒラリー卿は数年前に (米寿で) 既に他界したが、彼の「エベレスト」精神は、我々の魂の中に、生き生きと燃え続けている! 

2019年2月3日日曜日

(敗戦後) 日本選手が初参加を許された五輪 :
"1952年ヘルシンキ大会" の懐かしい思い出

太平洋戦争の終結後、初めて開催された夏期五輪は1948年ロンドンで開かれたが、敗戦国 (日本、ドイツ、イタリア) は、戦争責任を問われ、出場が禁止された。

さて、1952年にヘルシンキで開催された夏期五輪で、敗戦国の日本が晴れて、初参加を許された。 私が、未だ9歳 (小学3年) の夏休み中だった。 私の記憶に最も強烈な印象が残っているのは、チェコの長距離選手、エミール=ザトペックが陸上競技、3種目 (5千メートル、一万メートル、そしてマラソン) で三冠王を成し遂げたことである。五輪史上、同じ大会の陸上競技で三種目に優勝したのは、後にも先にも、ザトペック以外には誰もいない。「超人的な偉業」だった! 私自身が高校や大学の陸上部で長距離を始めのは、疑いもなく「ザトペック」の影響である。

さて、 ザトペックの偉業に隠されたが、この大会の水泳競技 (長距離) でも、素晴らしい「デッドヒート」が展開した。実は、1949年年頃から、古橋広之進選手が、 400 メートル自由形、1500 メートル自由形などで続々、世界新記録を樹立し始めた。そこで、「フジヤマのトビウオ」というニックネームが彼に与えられた。 伝説によると、敗戦直後の古橋選手は、贅沢な白米など自宅になかったので、主食に「薩摩芋」を食べながら、競泳の練習に励んでいたそうだ。 そこで、「古橋の爆発的推進力の秘密は、薩摩芋のオナラ」という無邪気な冗談が小学生仲間で流れたほどである。余談だが、豪州のマレー=ローズ選手は、メルボルン五輪 (1956) およびローマ五輪 (1960) で、400 m 及び 1500 m 自由形を連勝し、「史上最高のスイマー」と賞賛されたが、菜食主義者で、"海草" でスタミナを付けた」という有名な伝説が残っている。。。

"来たるべき" ヘルシンキ大会での古橋選手に対する日本中の期待は、想像以上に大きかった。 ところが、ヘルシンキ大会前に、南米での強化合宿中に、赤痢に感染し、期待の古橋選手は400メートル自由形では決勝でビリ。1500 メートル自由形では、決勝に出場さえできなかった。しかしながら、決勝に出場した8名の選手の内4名は驚くなかれ、いわゆる「日系」だった。日本から橋爪選手と北村選手、米国からハワイ出身のフォード=コンノ選手、ブラジルから岡本てつお選手だった。レースは後半で、米国のコンノ、日本の橋爪、ブラジルの岡本という「日系同志の3つ巴」が展開した。結局、  米国のコンノが世界新でゴールイン (金メダル)、10秒遅れで橋爪 (銀メダル)、更に10秒遅れて、ブラジルの岡本 (銅メダル) がゴールインした。北村選手は結局6着に終わった。なお、米国のコンノは400メートル自由形でも銀メダルを獲得した。

もし、この「日系の快挙」が2020年の東京五輪で展開したら、(大坂直美を凌ぐ) 「トップ」ニュースになっただろうが、1952年当時の日本社会では「混血 」(ハーフ) に対する偏見がかなり強かった。その上、橋爪選手は日大同期 (兄貴分) の古橋選手に遠慮して、銀メダルを公開の場で見せなかった。 そこで、「古橋選手の無念さ」だけが、新聞やラジオで"感情的" に報道されるに留まった。 実に残念である! 

最近偶然知ったことだが、このヘルシンキ大会で銀メダルを獲得した橋爪四郎選手は白髪の "好男子"、現在90の高齢だが、未だに健在だそうである。金メダルのコンノ選手も86歳で健在!  一方、本番で大失敗の古橋選手は、日本水泳連盟では長らく「大ボス」だったが、結局、メダルなしに、当時のライバルに比べて、比較的短命な "淋しい" 生涯に終わった (80歳で他界) ! 

けだし、1948年ロンドン五輪での水泳自由形1500m や 400m の優勝記録は、当時古橋選手が出していた世界記録 (未公認!) より劣る。 未公認記録だったのは、(敗戦の影響で) 戦後1949年まで、日本水連が国際水連から除外されていたからである。言い換えれば、古橋選手は「日本による戦争犯罪」の被害者の一人である。

 安倍内閣よ、戦争を繰り返すな!  憲法「第9条」の精神を尊重せよ! 戦争が好きなら、独りで戦場へ行け!  決して国民を「巻き添え」にするな!

前述したが、大昔、イスラエルの羊飼い (ダビデ少年) は、襲撃してきた敵の大将 (ゴリアテ) と独りで対決し、得意の Sling (パチンコ) で、相手を一発で倒した。 安倍さんも「有事」には、得意の "ゴルフ=ショット" (魔法の弾丸) で、敵の大将を討ち取るべきである。そうすれば、自衛隊や沖縄の米軍基地などは (災害対策以外では) もはや「不要」

2019年2月1日金曜日

「高峰譲吉」から学ぶ「冨山の薬売り」商法

古今東西、新薬の開発は、製薬会社内で研究開発されたものを、同じ製薬会社が (治験を経て) 市販に踏み切るのが、殆んど大部分である。 しかしながら、我々のPAK遮断剤「15K」の研究開発には、今まで製薬会社が全く関わっていない。 そこで、如何にして、製薬会社に我々の「15K」の威力と魅力 (市場価値) を認めてもらい、市販に協力してもらうかが、今後の我々に課せられた重要な課題である。そこで、創薬の長い歴史を振り返って、参考になるかもしれない実例を最近、探し始めた。 。。

先ず、(100年以上昔の) 明治時代に遡って、高峰譲吉 (1854-1922) が米国で開発した胃腸薬「タカ=ジャスターゼ」に注目してみた。 我が友人で、米国西海岸 (ロサンゼルス郊外) に永住していた伝記作家、飯沼信子さん (昨年、86歳で他界) が25年ほど昔に出版した「高峰譲吉とその妻」を参考にした*。実は、高峰譲吉の奥さんはキャロライン=ヒッチ (米国ニューオルリンズ出身) である。高峰が1884年にニューオルリンズで開催された万国博覧会の「日本館」に特許庁から派遺された際に、なりそめで婚約、 3年後に米国に戻ってきて、結婚にゴールイン。 彼は東京 (帝国) 大学の工学部 (応用化学) 出身だが、主に米国内で、 人造肥料、ウイスキーの醸造、医薬「アドレナリン」の開発など、幅広い分野で活躍した。

 1892年に (ウイスキーの醸造に利用した) コウジカビから消化酵素「ジャスターゼ」の開発に成功。5年後 (1897年) に米国の製薬会社「パーク=デービス」(10年ほど昔、大手製薬会社「ファイザー」社に、とうとう買収される) と販売契約を結び、(日本国内を除く) 世界中で、商標「タカ=ジャスターゼ」の下、市販に踏み切る。ただし、日本国内の販売については、1899年に「三共商店」(後の三共製薬) を起業家である塩原又策と共同で設立して、別ルート (別価格=より安価) で販売した。さて、米国内での、「高峰研究所」の企業との結び付きについては、キャロラインの母、社交界で顔が広い「マリー=ヒッチ」の後押しが強い!

さて、マリー=ヒッチの影響力はともかくとして、海外での販売と日本国内での販売元は「高峰流」に、別々の製薬会社を選び、日本国内では「より安価」に販売できるように、我々も「15K 」に関する特許を、「米国」(海外) 向けと「日本」向けに、別々に取得した。実は、昨年夏、冨山市内に滞在中、 私は高峰譲吉の生誕地である高岡市を訪ね、大仏殿の近くに立つ小さな「高峰博士」の銅像を拝観する機会を得た。 この地は、譲吉の父親「精一」が京都で医学を学んだ後、郷里に戻ってきて開業した地 (通称「えんじゅ屋敷」) である。

 蛇足になるが、高峰譲吉がしばしば「高峰博士」と呼ばれる由縁は、ジャスターゼの研究で「工学博士」号 (1899年)、アドレナリンの研究で「薬学博士」号 (1906年) を取得しているからである。従って、高峰博士には、「工魂」以外に「薬魂」もあった!  彼の「工魂」は、郷里「冨山」でアルミの精錬に必須な電力源を確保するために、黒部第2ダム (いわゆる「黒2」) の建設事業を起こし、現在の「冨山地方鉄道」(地鉄) の土台を作った際に大いに発揮された。

余談になるが、冨山には「ノーベル街道」と呼ばれる岐阜、名古屋へ向かう国道41号線がある。 昔は「 ブリ 」街道と呼ばれていたそうだが、街道沿いにある東大の付属研究所 (鉱山跡に建設された宇宙から来る「重力波」などを観測する洞穴!) に住みつく教授らが最近ノーベル物理学賞をもらった機会に、「観光客寄せ」のため、街道名を変えたそうである。私も「話の種に」、この街道を地鉄の高速バスで、飛騨の白川郷や新穂高温泉へ向かって、2度ほど往復したことがある。 何の変哲もない街道だった!  特に平日は客足が極めて少なく (僅か2、3名!) 、今後は大型バスからミニバスに切り換えるという噂も耳にした。。。白川郷からの帰り、金沢行きのバスは、外人観光客で満員近かったが、冨山行きの地鉄バスには、私を含めて、たった2、3名だった。とても淋しい!

 客寄せのために、街道筋に何か「目新しい」(画期的な) 建造物を近い将来、建設する必要があるだろう!  健康長寿の薬「15K」を独占的に製造する「PAK ファーマ 」(製薬会社) (直売コーナー付き) を建設するというアイディアはいかがだろうか?  海外で稼いだ「15K」 の特許使用料 (販売ライセンス料) で、「冨山振興」のため、ユニークな製薬会社の営業部を街道筋に創設するという案は決して悪くない!  ひょっとしたら、中国大陸から「15K」の爆買い客が殺到するかもしれない。。。実は、事情あって、中国特許を取得していないので、中国では「15K」の売り手がいない!  

*注:  仔細なことであるが、この伝記の90-91ページに北里柴三郎についての記述があるが、「北里研究所」は正しくは「伝染病研究所」(伝研) 、「アルセフェナミン」は正しくは「サルバルサン」(606) である。 「故人」となった著者に代って、訂正させて頂く。