2021年4月6日火曜日

受験小説「岐路」: 芸術家になるか、医学者になるか?
A Cross-Road towards Painting or Drug-Discovery

実は、60年昔の卒業式より 2、3カ月前に大学受験のシーズンが始まっていた。 "日比谷" では、正月明けに、ラグビー部が、優勝候補の名門「保善」 (東京代表 1) についで、「東京代表 2」として、大阪の花園ラグビーで開催される「全国高校ラグビー選手権」大会に初出場を勝ち得た! 一回戦、2回戦を軽く通過して、いよいよ「ベスト8」に残った。準々決勝の相手は、 強豪「北見北斗」。 21 - 5 で日比谷敗退。決勝では、保善が北見北斗をストレートで下し、優勝! 出場 32校の内、公立校は「日比谷」だけ、他校は全て私学。 その年、東大合格者 165名だった日比谷は、文字通り「文武両道」ぶりを発揮した。
しかし、少なくとも2名の同級生は、この165名の東大合格者の中にはいなかった!声楽家をめざしていた長身の丸山君と 画家をめざしていた短身の浦島昇は、上野にある「芸大」の音楽部と美術学部を、各々受験した。実技は高得点だったが、学科でも、得意の英語は満点に近かったが、数学の苦手な両人は 自然科学 や人文科学ではかなり苦戦した。 しかし、両者とも何とか芸大音楽部 (声楽専攻、定員54名) と美術学部 (絵画科油絵専攻、定員55名) に、各々パスして、いわゆる「芸大袋」を受け取った! 丸山君 (パン屋の息子で、ラグビー選手) は芸大卒業後、 テノール (あるいはバリトン) 声楽家への道を順調に歩んだ。
さて、問題は昇だった。彼が最も好きな画家は、ノルウエーのムンク、感情を描く画家だった。 「叫び」や「マドンナ」が、その代表作である。 しかしながら、60年昔の芸大の洋画界は、ピカソなどに始まる戦後のいわゆる「キュ-ビズム」に浮かれていた。「抽象画が画けぬ者は、洋画家にあらじ」という行過ぎた風潮が上野界隈の画壇に根強く慢延していた。 昇は訳の分からぬ「猿真似」抽象画に嫌気がさした。昇は、「誰にでも理解できる」写実的な絵を、その真髄としていた。しかも、絵を通して、人間の感情を伝えることができれば、理想的だと、考えていた。従って、当時の芸大洋画科の教師たちに全く失望した。 かと言って、平面的で奥行きのない「日本画」には、全く魅力がなかった。。。
そこで、父親の正夫に相談してみた。 実は、父親は息子が芸大の入試に現役でパスしたことに、驚くと共に失望していた。 絵画の世界には流行があり、将来それにうまく乗れないと、画家はいわゆる「つぶし」が効かなくなるからだ。 例えば、オランダの有名な画家、ヴァン=ゴッホは生前、殆んど絵が売れなくて、兄貴がずいぶん苦労した。ゴッホが有名になったのは、死後のことである。。。 そこで、正夫は息子に曰く、 「どこまでも、客観的なものを追求したいなら、科学者をめざすべきだ」。 息子はその言葉に、はっと目覚めた! しかし、日比谷で、岡田という数学の教師に幻滅を感じて以来、数学に対して情熱を全く失ってしまった昇には、数学の要る自然科学、例えば物理学は全く及びでなかった。しかも、日比谷の高1で、化学を選択したため、生物学を全く履修できなかった昇には、生物系の自然科学も無理だった。最後に残ったのは、有機化学だけだった。 できれば、新薬を開発してみたかった。 そこで、一年後には、最寄りの東工大 (応用化学専攻) を受験した。 しかしながら、数学が難解で、昇にはとても歯が立ったなかった! 見事に落ちた! 文系ながら、数学が得意だった父親曰く。「東大の理三 (医学部専攻) は勿論、数学が難しいが、理二の数学は易しいので、お前にも解けるだろう。 理二からは将来、望めば (気が変われば) 文系にも進学できるから、大器晩成らしいお前にはピッタリだ」。 そこで、昇は「背水の陣」を引き、御茶ノ水駅近くにある「駿台予備校」に通学して、本格的に受験勉強を開始した。 もし、この受験に失敗したら、大学を諦め、就職せざるを得なかった。
さて、暑い真夏のある日の夕方、「駿台」から遠くない神保町の古本屋街で、ある伝記本を見つけた。 ある有名なノーベル受賞者の秘書が出版した英文伝記の邦訳だった。 化学療法の父「パウル=エーリッヒ」の伝記だった。ユダヤ系のドイツ人医師で、有機化学に長じ、組織染色が得意なエーリッヒ博士は、1908年に免疫学でノーベル医学賞をもらった翌年、(梅毒菌を染めるが、人体組織を染めない) 特殊なアニリン色素にヒ素を化学的に結合させて、梅毒の特効薬「サルバルサン」(606) を開発した! 絵の具に使用する種々の色素に興味をもっていた昇は、「これだ!」と思った。 自分自身は、副作用なしに、癌を特異的に殺しうる薬 (化合物) を、将来開発しようと決心した!。著者はエーリッヒ博士の女性秘書で、ユダヤ系だったので、ヒットラーが政権を掌握すると、英国に亡命して、この伝記を仕上げた。1940年にこの伝記を台本にして、米国のMGM が「エーリッヒ博士の魔法の弾丸」という白黒映画を製作した。 1980年に「パウル=エーリッヒ」賞を受賞した梅沢浜夫教授 (日本の「抗生物質の父」) は、自伝「抗生物質を求めて」の中で、この白黒映画を戦後観る機会に恵まれ、感動した、と記している。 1963年、昇は易しい数学のお蔭で、東大理二を無事にパスし、入学後間もなく、分子生物学を猛勉強し始め、憧れの薬学部 (製薬化学科) に進学した。
昇の好きな詩の中に、(芸大出の芸術家) 高村光太郎の「道程」と題する力強い詩がある。「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」という言葉で始まる、パイオニア精神を歌ったもの。 大学を卒業してから丁度10年後に米国で、昇は自分の「道」を発見した。それが "PAK" と呼ばれるミオシンを燐酸化するキナーゼ。このキナーゼは、血管平滑筋の収縮を促進して、高血圧を起こすばかりではなく、癌やその他様々な難病を起こす、いわゆる「病原酵素」で、正常な細胞増殖には必要ない。その後、豪州などで、40年近くをかけて、その「PAK」を遮断する (プロポリス等) 様々な薬剤、つまり「魔法の弾丸」(=健康長寿の薬)を同定あるいは開発した。 一世紀の歳月を経て、弾丸の「標的」は、「病原菌」から「宿主に内在する有害な酵素」へ飛躍的に進化した!
さて、北里研究所の大村 智 博士 と米国メルク社のウイリアム=キャンベル博士は共同で、放線菌由来のマクロライド系抗生物質の誘導体「イベルメクチン」が寄生線虫の神経を選択的に麻痺させることを発見し、40年ほど昔にに市販した。 その後、それが赤道直下のアフリカ大陸や中南米で慢延しているオンコセルカ (河川盲目症) にも効くことが判明し、 かの有名な「シュバイツアー博士の慈善精神」に沿って、それを大量に無償配布して、この伝染病の撲滅に貢献した。それが高く評価されて、(WHOなどの推薦により) 2015年に両博士にノーベル医学賞が与えられた。 更に、興味深いのは、このイベルメクチンが、実は「PAK遮断剤」であることが、この受賞の数年前に浦島昇らによって発見され、ごく最近には、イベルメクチンやプロポリスなどのPAK遮断剤がCOVID-19 感染の治療にも有効であることが臨床テストで証明された (前述)。 WHO website にも、2020年に浦島昇らにより発表された英文総説「PAK1-blockers: Potential Therapeutics against COVID-19」が、最近引用されるようになった。
受験生諸君! 長い道程から顧みれば、最初の1、2年のつまずきは取るに足らない。。。
「文系」の受験者を扱った作品は腐るほどある。作家自身が文系だからである。「理系」あるいは「芸術家」を扱ったこの短編は、その意味で「異色」である。。。
もう一つ, 異色な作品は、杉山勝栄著 「シュバイツアー」(ポプラ社、子供の伝記) である。牧師の息子、アルバートが30歳に達した時、哲学博士、神学博士、パイプオルガン奏者だった彼は、一大決心をして、医学の勉強を始め、6年後に医師免許を取得し、アフリカ大陸に旅立ち、貧しい黒人たちの治療に一生を捧げた。 彼は1953年に、78歳でノーベル平和賞に輝いた!

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