ここで、治験に関して、私が特に強調したい一点がある。 それは、いわゆる「プラシーボ 」(偽薬) 実験である。 人道上、これは「絶対に廃止すべき」である!
動物実験で、薬剤の「プラシーボ 」テストは、既に実験済みである。 これを難病患者に対して、もう一度繰り返す必要は全くない! 治療せずに、患者を「見殺しにする」以外の何物でもないからだ。。。
前述したMGM名画「エーリッヒ博士の魔法の弾丸」で、私をひどく感動させたシーンがある。 ベルリン大学病院の小児科で、ジフテリア患者を対象とする抗毒素 (抗血清) の治験が開始された。(後にノーベル受賞を貰う) ベーリングとエーリッヒは、病院長に呼ばれて、20名の患者に抗血清、残りの20名に「プラシーボ」 (効力のない普通の血清) を注射するよう、指示された。 病院長曰く「2組の間で、生存率に有意差が出れば、抗血清の薬効が証明できる」。。。
さて、最初の19名の患者 (児童) に抗血清を注射し終わった時、20人目の患者が既に死亡していることに気づいた! そこで、エーリッヒは、代わりに、(プラシーボ組) の 21人目の子供に20番目の抗血清を注射した。 さて、残りの19名の運命はいかに?
(病室の窓ガラス越しに安否を気遣う) 残りの患者の母親たちの訴えるような目をみた瞬間、エーリッヒは病院長の指示を無視して、残り全員にも抗血清を注射した。エーリッヒ曰く「医師の使命は患者の病気を治療することで、患者をモルモット扱いにはできない!」。しかし、「石頭」の病院長はかんかんに怒って、エーリッヒの病院への出入りを禁じた! それから数日経って、エーリッヒは突然、時の厚生大臣から呼び出しを受け、恐る恐る出頭すると、「注射を受けた39人の子供全でがジフテリアから救われた」という 意外なニュースを告げられた。大臣曰く、「君が20番目に注射した子供は、実は私の孫だったよ」。 その「医魂」に惚れ込み、大臣は、エーリッヒを新しい研究所の所長に任命し、いわゆる「魔法の弾丸」を開発する研究を続けるよう激励した。。。 他方、"非人道的な" 病院長の運命は如何に? もし、私が厚生大臣だったら、彼を即時解任しただろう。。。
この厚生大臣は「先見の明」のある人物だった。ロベルト=コッホが結核菌を発見した際、この大臣は、ベルリンにコッホ研究所を設立することを提案した。そのお蔭で、数カ月後、エーリッヒが "自宅の研究室" で結核菌の染色法を開発した際、憧れのコッホ研究所に採用された。実は、コッホが結核菌発見を発表した会場に、友人ベーリングの誘いで、エーリッヒはベルリン大学病院をこっそり抜け出して、コッホの歴史的な講演を聴きに来ていた。その際、染色に関する提案をして、(偶々その場にいわせた) 病院長に見つかってしまい、病院長から解任されてしまった。その後に、エーリッヒを失職から救ったのがコッホとこの大臣だった。
もし、こういう賢い厚生大臣が日本にもいたら、日本の医療レベルはもっと高まっていただろう。。。正に、"政治の貧困" は、"医療の貧困" を招く! 言わんや、科研費 (研究助成金) と引き換えに、自分のドラ息子を医大に「裏口入学」させるような腐敗し切った高級官僚が「文科省」のトップレベルに君臨している限り、日本の医療が向上するわけはない!
コッホの弟子だった北里柴三郎はジフテリア菌の同定に貢献したが、帰国後、福沢諭吉のお蔭で設立された「伝染病研究所」(伝研) の所長になった。 この伝研から、野口英世、志賀 潔、秦 佐八郎 などの優秀な病理学者が続々と巣立っていった。ところが、その成功を妬む当時の東大医学部長 (青山) が文部大臣と共謀して、伝研を文部省の傘下にする (尻に敷く) 計画を聞き、それに抵抗して、伝研の所長を辞めて、民間の「北里研究所」を設立した、という有名な歴史がある。詳しくは、篠田達明著「闘う医魂」(歴史小説) を参照されたし。
我々のPAK遮断剤「15K」が市販された暁には、「PAK と闘う薬魂」と題する歴史小説の出版を、今から楽しみにしている。。。
0 件のコメント:
コメントを投稿