2019年2月3日日曜日

(敗戦後) 日本選手が初参加を許された五輪 :
"1952年ヘルシンキ大会" の懐かしい思い出

太平洋戦争の終結後、初めて開催された夏期五輪は1948年ロンドンで開かれたが、敗戦国 (日本、ドイツ、イタリア) は、戦争責任を問われ、出場が禁止された。

さて、1952年にヘルシンキで開催された夏期五輪で、敗戦国の日本が晴れて、初参加を許された。 私が、未だ9歳 (小学3年) の夏休み中だった。 私の記憶に最も強烈な印象が残っているのは、チェコの長距離選手、エミール=ザトペックが陸上競技、3種目 (5千メートル、一万メートル、そしてマラソン) で三冠王を成し遂げたことである。五輪史上、同じ大会の陸上競技で三種目に優勝したのは、後にも先にも、ザトペック以外には誰もいない。「超人的な偉業」だった! 私自身が高校や大学の陸上部で長距離を始めのは、疑いもなく「ザトペック」の影響である。

さて、 ザトペックの偉業に隠されたが、この大会の水泳競技 (長距離) でも、素晴らしい「デッドヒート」が展開した。実は、1949年年頃から、古橋広之進選手が、 400 メートル自由形、1500 メートル自由形などで続々、世界新記録を樹立し始めた。そこで、「フジヤマのトビウオ」というニックネームが彼に与えられた。 伝説によると、敗戦直後の古橋選手は、贅沢な白米など自宅になかったので、主食に「薩摩芋」を食べながら、競泳の練習に励んでいたそうだ。 そこで、「古橋の爆発的推進力の秘密は、薩摩芋のオナラ」という無邪気な冗談が小学生仲間で流れたほどである。余談だが、豪州のマレー=ローズ選手は、メルボルン五輪 (1956) およびローマ五輪 (1960) で、400 m 及び 1500 m 自由形を連勝し、「史上最高のスイマー」と賞賛されたが、菜食主義者で、"海草" でスタミナを付けた」という有名な伝説が残っている。。。

"来たるべき" ヘルシンキ大会での古橋選手に対する日本中の期待は、想像以上に大きかった。 ところが、ヘルシンキ大会前に、南米での強化合宿中に、赤痢に感染し、期待の古橋選手は400メートル自由形では決勝でビリ。1500 メートル自由形では、決勝に出場さえできなかった。しかしながら、決勝に出場した8名の選手の内4名は驚くなかれ、いわゆる「日系」だった。日本から橋爪選手と北村選手、米国からハワイ出身のフォード=コンノ選手、ブラジルから岡本てつお選手だった。レースは後半で、米国のコンノ、日本の橋爪、ブラジルの岡本という「日系同志の3つ巴」が展開した。結局、  米国のコンノが世界新でゴールイン (金メダル)、10秒遅れで橋爪 (銀メダル)、更に10秒遅れて、ブラジルの岡本 (銅メダル) がゴールインした。北村選手は結局6着に終わった。なお、米国のコンノは400メートル自由形でも銀メダルを獲得した。

もし、この「日系の快挙」が2020年の東京五輪で展開したら、(大坂直美を凌ぐ) 「トップ」ニュースになっただろうが、1952年当時の日本社会では「混血 」(ハーフ) に対する偏見がかなり強かった。その上、橋爪選手は日大同期 (兄貴分) の古橋選手に遠慮して、銀メダルを公開の場で見せなかった。 そこで、「古橋選手の無念さ」だけが、新聞やラジオで"感情的" に報道されるに留まった。 実に残念である! 

最近偶然知ったことだが、このヘルシンキ大会で銀メダルを獲得した橋爪四郎選手は白髪の "好男子"、現在90の高齢だが、未だに健在だそうである。金メダルのコンノ選手も86歳で健在!  一方、本番で大失敗の古橋選手は、日本水泳連盟では長らく「大ボス」だったが、結局、メダルなしに、当時のライバルに比べて、比較的短命な "淋しい" 生涯に終わった (80歳で他界) ! 

けだし、1948年ロンドン五輪での水泳自由形1500m や 400m の優勝記録は、当時古橋選手が出していた世界記録 (未公認!) より劣る。 未公認記録だったのは、(敗戦の影響で) 戦後1949年まで、日本水連が国際水連から除外されていたからである。言い換えれば、古橋選手は「日本による戦争犯罪」の被害者の一人である。

 安倍内閣よ、戦争を繰り返すな!  憲法「第9条」の精神を尊重せよ! 戦争が好きなら、独りで戦場へ行け!  決して国民を「巻き添え」にするな!

前述したが、大昔、イスラエルの羊飼い (ダビデ少年) は、襲撃してきた敵の大将 (ゴリアテ) と独りで対決し、得意の Sling (パチンコ) で、相手を一発で倒した。 安倍さんも「有事」には、得意の "ゴルフ=ショット" (魔法の弾丸) で、敵の大将を討ち取るべきである。そうすれば、自衛隊や沖縄の米軍基地などは (災害対策以外では) もはや「不要」

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