2019年2月9日土曜日

マッカーサーによる日本統治2000日: その功罪

(法政大学教授) 袖井林二郎著「マッカーサーの二千日」(中公文庫、1976年) によれば、日米(太平洋) 戦争の勝利者「マッカーサー元帥」(日本占領連合国最高司令官) が65歳で、日本の厚木飛行場に降り立ったのは、終戦から2週間後の1954年8月30日。以後2000日間、昭和天皇を含めて日本国民の上に「君臨」する絶対的な支配者となった。 しかしながら、(南北) 朝鮮戦争の最中に、北鮮に対する「原爆使用」発言をきっかけに、トルーマン大統領に罷免され、1951年4月16日に羽田飛行場を発って、米国に帰国した。

我が家の評価によれば。マッカーサーは「偉大な政治家」 (「アメリカ製のシーザー」と言う異名) だったが、軍人としては、北大西洋戦線でナチス=ドイツを相手に活躍したアイゼンハワー元帥 (後の米国大統領) に比べると、(勝利者ではあるが) 余り成功したとはいえない。しかしながら、敗戦後の「日本の民主化」にとっては、極めて貴重な (掛け替えのない) 存在だった。 特に、戦後に制定したいわゆる「マッカーサー憲法」は、戦争放棄宣言、女性の参政権を含む民主的な選挙制度、言論の自由、財閥の解体など、マッカーサーでなければできなかった平和的かつ民主的な憲法だった。幸い、この憲法は、戦後70年余り、改悪されずに原型を保っている。 

マッカーサーは2000日の日本統治に、昭和天皇を巧みに利用した。「 国民の象徴」と称するわけのわからぬ (英国の女王に近い) 権威を天皇に与え、この象徴を、実質的な支配者である「マッカーサー」と被支配者である「日本国民」との間に、緩衝帯 (クッション) として設けた。 従って、国民からの不満は直接マッカーサーには向かわなかった。 全て、天皇(隠れ蓑あるいは副官) に吸収させる仕組みにした。敵ながら「あっぱれ」である。

しかしながら 、朝鮮戦争では、大失敗だった。 それが失脚の最大要因になった。軍事的な作戦に失敗したばかりではなく、トルーマン大統領の苦しみを理解していなかった。終戦直前、広島と長崎への原爆投下を直接命令したのは、大統領であり、マッカーサーではなかった。命令を下した大統領は後にそれを後悔した (悪夢だった!)。 それを悟らなかった鈍感なマッカーサーは、苦しまぐれに、北鮮や中共に対する原爆投下を 提案したのだ。 そこで、悩める大統領を大いに怒らせた。万事休すだった! 

さて、マッカーサー無きあと (つまり2000日の占領期間が終了後)、 日本には、「国民の象徴」たる天皇の存在は、実はもはや必要なくなった。 あれはマッカーサーにだけ必要だった。本年には、平成天皇が老齢のため生前退位する予定になっている。 次期天皇の名前は未だ一般には公開されていないようだが、そろそろ(象徴) 天皇制度を廃止すべき時期が来つつあるような気がする。。。 天皇家を、自分の意見を自由に表明できる (一人前の) 民間人にしてやりたい。そういう意味で、1-8条の改憲 (削除) を支持するが、第9条は絶対に保存すべきである。

「マッカーサー憲法」中で、第 "9" 条 (戦争放棄) に加えて、「男女同権」を強調した第 "24" 条がユニークな存在である。 戦前の日本では、女性に参政権がなかった。そこで、日本で育ったオーストリア生まれの米国女性 (ベアテ=シロタ) が、1946年にマッカーサーのGHQ による日本国憲法の作成チームに僅か23歳で加わり、第24条に「男女同権」の項を設け、「女性の参政権」を保証せんとした。 当時の日本政府は、その項に強く反対したが、マッカーサーらの裁断で、無事通過した。 私は彼女の自伝「1945年のクリスマス」(1995年) を通じて、女史と懇意になり文通を続けたが、 2012年12月末、女史は「膵臓がん」のため、89歳で、ニューヨークの自宅で亡くなった。

 女史の自伝によれば、GHQ による当初の憲法案では、国会は「一院制」だった。 ところが、日本政府側の要求で、結局GHQ側が妥協して、衆議院と参議院の2院制になった。しかしながら、それから70年以上経った今の国会の現状を見ると、「一院制」で十分であるように、私には思える。 何故かと言えば、参議院は衆議院の事実上「二番煎じ」に過ぎなくなっているからだ。 (米国の上院にみられる) 「参議院らしい特徴」が全くない。 精神年令「12歳」(あるいは18歳) の有権者や政治家には、2院制をうまくこなす知恵が未だ浮かんでいない!

実は、マッカーサーの有名な発言 (日本人12歳論) に関して、"誤解" があった。記者会見で 「科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみれば、アングロ=サクソンもドイツ人も45歳の壮年に達しているが、日本人は未だ12歳の少年である」と語った。著者によれば、この発言は、日本文化の将来への「伸びしろ」を讃えたのであるが、多くの日本人は、誤解し、かつ憤慨した。 忽ち「マッカーサー記念館」の日本での建設計画は立ち消えになり、GHQ があった第一生命の執務室が「マッカーサー記念室」として保存されるに留まった!  さて、70年余年後の現在、日本文化は果して、何歳までに成長発展しただろうか?  最近のトランプ大統領や英国のEU離脱を巡るゴタゴタを見る限り、アングロ=サクソンは老化の一途を辿っているようだが。。。

 さて、1951年4月に日本統治の任務から外されたマッカーサーは、翌年11月の米国大統領選挙の共和党候補の一人として立候補したが、共和党の予備戦で (昔の部下であった) アイク=アイゼンハウー将軍に敗れ、政界から引退した。 日本統治に成功した「シーザー」(独裁者) も、(民主主義国家) 米国では通用しなかった。「老兵は消え去るのみ」だった!

 客観的に観れば、勝負の行方は選挙前から明白だった。「アイク」は、全ヨーロッーパを独裁者ヒットラーから解放した英雄だった。 大戦中に欧州から米国に逃れてきた移民たちが、彼の熱烈な支持者になった。マッカーサーの支持者は、恐らく (真珠湾攻撃を受けた) ハワイ州住民に過ぎない。 極東における日本統治の功績は、米国有権者の関心外だった。。。

最も皮肉な現象は、(ソ連による極東への進出を防ぐ) マッカーサー統治下で、毛沢東による中共 (中国共産党) 政府が樹立される直前 (1949年夏)、下山事件、三鷹事件、松川事件などを通じて、一連の弾圧を受けたはずの革新派 (特に共産党) の政治家が「護憲」 (マッカーサー憲法を擁護する) 側に回り、統治下で甘い汁を吸い続けた保守派 (自民党など) が憲法の「改悪 」(つまり、第9条の削除) を図っていることである。

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