戦後初めての「平和を象徴する」夏期五輪は、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された。この大会で、世界の観衆を最も沸かせたのは、小国チェコスロバキア出身の長距離走者、エミール=ザトペック (1922-2000) だった。いかにも苦しそうな表情で疾走する「人間機関車」という異名を持つザトペックが、得意の5千メートル、一万メートルばかりではなく、初めて走るマラソンにも優勝し、世界の長距離界をあっと言わせた! 私は当時、未だ10歳足らずだったが、ザトペックに憧れた。 翌年の1953年5月末に、世界最高峰エベレスト (海抜8850m) の初登頂に成功したエドモント=ヒラリー (NZ) とテンジン=ノーゲイ (ネパールのシェルパ族) と共に、瞬く間に世界スポーツ界のヒーローとなった。
目下、避寒中のケアンズにある市立図書館で、Richard Askwith 著の評伝「Rise and Fall of Emil Zatopek」 (2016) を読書中であるが、ザトペックは五輪で大活躍したばかりではなく、1968年に起こったソ連軍によるチェコの首都プラハの占領時に、それに反対/抵抗するドブチェック首相と共に、いわゆる「プラハの春」運動にも積極的に参加したため、結局、(ソ連当局により) 英雄の座から引き降ろされ、隠退 (実は石切り場で強制労働) を強いられる運命になる。。。
最後に紹介したいのは、ザトペックの (選手仲間/後輩に対する) 優しい心使いの一端を象徴するあるエピソードである。 1964年の夏期五輪 (東京で開催) から2年後の1966年の夏に、サトペックが豪州メルボルン出身の長距離走者ロン=クラーク (メルボルン五輪の最終聖火走者) をプラハで開催予定の競技に招待した時の事である。 当時、クラークは5千メートル、一万メートルの世界記録を次々に大幅に塗り変えた長距離界のヒーローだった。しかしながら、不幸にして、(4年毎に開催される) 五輪や英連邦競技大会などで、とうとう金メダルを獲得する機会に恵まれなかった。 それを気づかって、ザトペックは空港でクラークを豪州へ見送る際に、茶色の紙に無造作に包んだ小さな贈り物をクラークにそっと手渡して、こう言った。 「これを大事にしてくれ給え。君には十分その資格がある」。 その包みをいぶかしく思って、飛行機に乗る直前に、空港トイレの便器に腰掛けながら、その小箱をそっと開けてみると、何と、ザトペックがヘルシンキ五輪で獲得した3つの金メダルの一つだった。 箱の内側にザトペックのサインがあった! それをみて、クラークは便器に座ったまま、大先輩の温かい心遣いに、感極まってホロリと涙を流した!
「戦後最悪の五輪」といわれる2021年東京夏期五輪が、とうとう明日から強行される。さて、一体どんな英雄がこの大会から誕生するだろうか? 最終聖火走者には、「多様性」を強調して、テニスの優勝候補である大坂なおみが選ばれた。 彼女の決勝への健闘を祈りたい!
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