2022年3月27日日曜日

老人の昔話: 自ら体験した 2人の "数学教師" の功害

片足を棺桶に突っ込んだ老人が、中高校時代を回顧して一筆 (生徒側から見た教師のあり方)
http://www.3to4.com/okada/book/mainiti.html
我が母校 (日比谷) で、28年ほど数学教師をやっていた風変わりな O氏 (東大出 身、79歳) が、20年ほど昔に、とうとう他界したのを、ごく最近知った。彼に対する 評価は (生徒個個人によって) かなり「まちまち」だが、我が人生にとっては、 「最悪」の数学教師だった!
(我が輩の記憶が正しければ) 高校2年次の初めの頃 (1950年代末) だった。 ある土砂降りの朝、 彼の数学の授業に初めて、5分ほど遅刻した。原因は、(赤坂見附までの) 地下鉄 か (渋谷駅までの) 東横線が事故のため、遅滞したからだ。 当時、大田区の外れ から、千代田区にある、この母校まで、電車を2度乗り換え、通学にタップリ一時間以上か かった。しかしながら、O先生曰く 「遅刻した者は、どんな理由であれ、廊下に 立っとれ!」。今なら、明らかに「パワハラ」だ!
当時、日比谷では、どんな科目でも授業時間が (60分ではなく) 100分間だった! だから、我が輩には、残り時間95分を、廊下で過ごすのは、全く馬鹿げていた ので、ゆっくりトイレを済ませてから、三階 (屋上) にある図書室で、読書を楽 しんだ。 その日の我が輩に関する出欠は、「遅刻」ではなく 「欠席」となった!
以来、我が輩の数学に対する「情熱」はみるみる薄れ、(他の数人の同級生と共 に) 何度か追試を受ける結果になった (幸い、留年は何とか免れたが) 。(理系の ) 大学受験では、(当然のことながら) 数学が「アキレスけん」になった。しかし ながら、長い目でみれば、我が輩の医化学研究に限っては、高等数学は全く不用 で、(義務教育で学ぶ) 「算数」 (四則計算) で十分だった!
さて、中学の数学教師 (田中恒夫、西高-教育大出身) は、我が人生の「最高」の教師 だった。一年次の担任教師でもあったが、卓球の選手 (都内の教師仲間で「ナン バーワン」!) で、放課後、(貧乏な区立中学で、未だ体育館が未だなかったので )、教室の椅子や机を片端に寄せて、折り畳み式の卓球台を廊下から引き入れ、 教師を相手に打ち合いを楽しんだ。 実は、我が輩は小学4年次に「小児結核」で半年休学し、「九死に一生を得て」復学 後、体操の授業はいつも、卒業まで見学だった。だから、中学に入学するまで、ま ともなスポーツができなかった。 我が輩にとっては、担任教師との卓球練習は正に「救い」だっ た! 愛称「ツーさん」(田中先生) は引退後、江ノ島/鎌倉に住んでいると聞いている が、未だ存命ならば、90歳近い。。。
実は最近、偶然にも、都立西高の卓球部のサイトに巡り合い、我が中学時代の恩師 (ツーさん) が、今年1月に90歳で亡くなったことを知った。 長らく"西高の卓球部" (西卓) の会長だった! できれば、1-2年中に、故田中恒夫先生に関する文集「数学と卓球」を、我が「七中」 の卒業生や「西卓」の有志たちと共に、編纂してみたい、と思っている。。。
さて、高校三年次に同級だった親友 T 君 (東大理学部出身) の記憶によれば、 (高校)一年次の数学担当は、 例の O 氏だったそうで、入学早々大変嫌な気持ちを味わったという。誰もがそう 感じつつ、授業中、時計を時々見ながら、早く終わらないかと終業ベルをじっと待っていたそうで ある。 特に、数学が2時間目の場合には、ベルが12時半頃に鳴る。 すきっ腹に、校内放送 のモーツアルト「Eine Kleine Nachtmusik」の懐かしいメロディーが流れてくる と、少なくとも我が輩は、救くわれた気持ちになった! 因みに、O氏は、生徒の出欠をとった後、黒板に向かって、数式をかき並べ、 我々には背中 (あるいは尻) を向けたまま授業し続ける「生徒との対話が乏しい」 タイプだった。。。
当時 (T君と) 同級だった H君(男性)とKさん(女性)がやはり遅刻して、O氏 に「遅刻届を出せ」と言われ、手持ちのルーズリーフに、自己流の遅刻届を書い て渡したところ、「遅」の字が二人とも間違っていると言われ、図書室へ行き、 調べてくるように言われ、約15分後に訂正版を出したら、許してくれたそうだ。 明らかに、女生徒には甘い! 後日談: この男女二人は、それ以来、互いに親しくなっ たそうで、めでたしめでたし!
我が輩の場合は、遅刻届けなど、請求されなかった。明らかに (教育) 方針を改悪したようだ。我が輩にとっては、O氏は、教師としては、明らかに「失格」だ! もっとも、H と K の場合には、「仲人役」を演じたという、思わぬ副 産物をもたらした! O氏にも、一時「婚約者」がいるという噂が立ったが、結局、 フォルクスワーゲンの小型車 (Bug) と結婚して、独身を選んだという、有名なエ ピソードも残っている。 我が輩の記憶が正しければ、高校へ"マイカー"で通勤していたのは、当時、O氏独り だった。。。都心の"空気汚染"が騒がれている折、都心でマイカーを運転するのは、「エゴ」の塊まり以外の何者でもない!
不思議にも、O氏による長年に渡る「数学」妨害にも拘らず、我が母校 は、当時毎年200名近い生徒が東大に進学し続けた。ところが、1967年頃、「小尾」 教育長が突然、「学校群」なる制度 (別名、日比谷下し) を強行するなり、「日 比谷」が瞬く間に凋落し、東大への進学者が、とうとう「〇」になった! これも信じ難い! 悪党 "小尾乕雄"氏も既に故人になったが、都内の私学「開成」や「麻布」から送られた「刺客」(Tiger) という異名を持つ。。。

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