2023年2月3日金曜日

我が恩師 (水野伝一教授) から学んだ事:
大腸菌内のリボゾーム顆粒の "消長" ?
マグネシウムの "存否" により生じる
蛋白合成を伴わぬ "RNA" の分解/合成
一体何が「人生の最後の傑作」になるか?

太平洋戦争が終わってから何年か経た後、生物学 (特に分子生物学) 界に新しい思想 (考え方) が誕生し始めた。 細胞内にある様々な顆粒、例えば、染色体の周囲に発達する紡錘体 (チューブリンの重合体) やアクチン線維などが消長するのは、蛋白の分解/合成によるのではなく、単にチューブリンやアクチンの「解離や重合」によるものである、という考え方が流行し始めた。 それを日本国内で、真っ先に受け入れたのが、我が輩の恩師である東大薬学部の微生物/分子生物学者、水野伝一教授だった! その水野教室に加わった我が輩 (修士の院生) が真っ先に挑戦したのが、大腸菌で蛋白合成に必須なリボゾームという「蛋白とRNA の合体」の消長のメカニズムだった。大腸菌は通常、マグネシウムの存在下で培養するが、培地からマグネシウムを除くと、増殖が停止する。 その主な理由は、リボゾームが崩壊し、蛋白合成ができなくなるからである。ところが、培地にマグネシウムを添加すると、ある程度のラグ (潜伏期間) の後、リボゾームが再生され、菌が増殖し始める!
我が輩の修士研究テーマは、その消長の分子的メカニズムを詳しく解明することだった。我が輩は、マグネシウム欠損状態ではリボゾームが存在しないから、蛋白合成が不可能! 従って、マグネシウム添加後に生ずるリボゾーム顆粒は、「残存していたリボゾーム蛋白」と新しく合成されたRNA が再結合した、と結論した! 実際、マグネシウム欠乏下では、RNAがRNase によって分解され、マグネシウム添加によって、RNAが新生された。 従って、理論的には、マグネシウム欠乏下でも、リボゾーム蛋白は細胞内に残存しているはず、そこで、それを実証するために、マグネシウム欠乏下の大腸菌エキスに、精製したリボゾームRNA を添加して、(試験管内で) 適当な条件の下、リボゾーム顆粒の再生に成功した!
実は、この成功に基づいて、博士号取得/渡米後、レスターの研究室に弟子入りして、先ず巨大アメーバで、「核移植」なる極意をマスターした上、「核膜の消長」の問題に果敢に挑戦したという、訳である。勿論、我が恩師 (水野伝一教授) は、その大成功を一番喜んでくれた! 実は、水野先生夫妻には、娘さんが2人いたが、長女は我が輩と殆んど同じ年頃で、芸大の音楽科で、「作曲家」志望だった。次女については良く知らないが、矢張り文系だった印象がある。従って、(授業料免除と奨学金で何とか食い繋いでいた「貧乏学生」だが、手助けをすれば、将来何とか物になりそうな) 我が輩を、言わば「息子代わり」に良く面倒をみてくれた。先生の奥さんも理系で、「予研」時代、先生の研究相棒 (助手) だった。。。然も、先生の出身中学 (旧制一中) は、我が輩の出身高校 (「日比谷」) の前身という、極めて幸運な関係があった。。。
更に、結婚相手になる女性を何度か紹介されたが、実は我が輩は, いわゆる「研究アニマル」(恐れ多くも「画家」にたとえれば、ミケランジェロやゴッホ等) で、育児に余り興味がなかったので、結局45歳に達して、身 (経歴) が固まるまで、未婚の女性と結婚するのは控えていた (海外で、「長期的な定職」に就くのは "至難の業" である!)。 むしろ、既婚で、 (成人になった) 息子や娘をもった年輩の女性を海外で、探すことにした。。。言い換えれば、来るべき世代に余り期待せず、我が輩自らの世代で、できれば「何か」を成し遂げたかった! つまり、我が亡父により、「自分のエベレストをめざす」(特別の使命を果たす) ように、育てられてきた
我が輩に、「封建的な」日本社会で仕事をする気が全くないことを、 (1973年の夏休みに、我が輩が横浜の桟橋から渡米/船出する時に、見送りに来てくれた) 我が恩師も良く心得ていた。 1980年の夏、我が輩が西独のミュンヘンにあるMAX-PLANCK研究所に転勤して間もな く (1-2年後) 、水野先生から突然、電話をもらった! 何事かと思ったら、今、 音楽の都「ザルツブルグ」 (映画「Sounds of Music」の舞台) にいるが、これか らミュンヘンに列車で向かうので、ミュンヘンで会おう! という伝言だった。 クラシック音楽の好きな先生は、東大を退官したばかりで、久し振りに海外旅行 を楽しんでいた。娘さん (作曲家) から「ザルツブルグ音楽祭」のチケットをも らったので、欧州に遊びにやってきたそうである。先生をミュンヘン駅で出迎え ると、連れの若い女性がいた。 列車の中で、一緒になったそうである。米国の教 師だがドイツ生まれ (Susanne Knabe) 。 一緒に食事をした後、先生は (昔の留学 先) 英国 に経つので、「スザンヌを宜しく頼む!」 といわれた。 その日は、土 曜日だったので、その晩は研究所のゲストハウスに泊まってもらい、翌日、ミュ ンヘンの南国境にある有名な "三角山" (Alpspitze、海抜 2630 m) へ案内し、一 緒に登山を楽しんだ。 (頭のやや鈍い) 我が輩でも、「先生の意図」は心得てい たので、 その後、しばらく、 ニューヨークの "芸術家の村" (Greenwich Village) に住む彼女と文通を続け、 ニューヨークにも訪ねたが、結婚には至らなかった。。。
この芸術家の村は、オー・ヘンリー (本名: William Porter, 1862-1910) の有名な短編小説「最後の一葉」の舞台。年老 いた画家が、(重い肺炎にかかった) 若い女性の命を救うために、(病室の窓辺から見え る) 塀に残る蔦の「最後の一葉」が強風に吹き飛ばされた直後、(風雨の真夜中) その一葉を壁に描いて、彼女を絶望的な病気から救うことができたが、(代わりに) 老人自身が重い肺炎に かかって、間もなく亡くなった! 結局、 この一葉が彼の「最後の傑作」となった! 
実は、この短編は、作者が公金横領の疑いで服役中に書かれた作品である。 刑務 所の窓から、塀に伸びる蔦の葉っぱの数を数えながら、最後の一葉が枯れ落ちる 頃には、自分も出所できるぞ、と期待しながら、蔦を眺めている内に、一瞬、こ の「短編」のアイディアが閃いたのかもしれない。。。全く同じ風景を見ても、 受け止める印象は人により「千差万別」である。。。 さて、 NY の "Greenwich Village" に住んでいたSuzanne Knabe 女史は当時30歳前後 だったから、現在は70歳前後のはずだが、インターネットの情報によると、未だ NY のBrox で、職業訓練所の上級指導教官として、活躍しているようである。。。
女史に初めて会ってから数年後に、我が輩がカルフォルニアの南端、San Diego にある UCSD に転勤した時、下宿した家 の主 (年輩の女性で、 4名の成人した息子や娘たちをもった "数学" の教師、ギリシャ系だから、ピタゴラスの子孫) と、親しくなり、丁度 "45歳" 寸前に結婚し、鎌倉の大船に住む水野先生夫妻を訪ね、(ようやく) 「結婚報告」を済ませた。 それが、(我々にとって) "先生との出会い" の最後になった。 その後間もなく、先生はかなり重度の認知症にかかり、自宅近くの老人ホームで、 テニスや油絵などを楽しみながら、余生を過ごしたそうである。
東大薬学教授に就任する数年前に、先生は英国で一年間、いわゆる留学研究生活を 送ったが、その際、チャーチル元首相が趣味の油絵をやっていることを知って、自 分も油絵を描き始めようになったと聞いている。 更に、今の上皇夫妻が未だ「皇太子」夫妻だった頃、先生がテニスのお相手をしばしばなさったそうである。。。

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