津田 仙 (江戸幕府の通訳) の次女 (梅) は、1864年に江戸で生まれた。 1871年に、日本初の女子留学生 (5名) の 一人 (最年少=7歳) として渡米、
米国の家庭に「ホームステイ」して10年間、勉学/研究のため滞在。 1982年に日本へ帰
国後、女子英学塾(「津田塾大学」の前身)の創設者として活躍、日本における
「女子教育の先駆者」と評価される。更に、欧米の学術雑誌に、研究論文を掲載
された「日本初の女性」。聖公会の信徒 (クリスチャン) 。
梅子が、渡米9か月後に書いた "A little girl's stories" と題する英文の
絵日記(2022年現在、津田塾大学 「津田梅子」資料室 所蔵)によれば、「父は、
最初は姉の琴子(1862-1911)を留学に応募させるつもりでしたが、姉は拒否しま
した! その後、父から留学の話を聞いた私は、アメリカに行きたい、と自分
の意志で答えました」という旨が記されている。
1872年2月に首都ワシントンに到着すると、梅子は吉益亮子と共に、ワシントン近
郊のジョージタウンに住むチャールズ・ランマン (1819-1895)に預けられた。
著名な画家・著述家・旅行家であったランマン氏は、当時、日本弁務使館書記官
を務めていた。ランマン夫人(1826-
1914)は、ジョージタウンの裕福な家庭に生
まれ、高等女学校を卒業した女性。 5月には駐米少弁務使 (森有礼) の斡旋で、
留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低
限の英語の勉強をさせられた。 10月末には、上田悌子は体調不良を、吉益亮
子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に "脱落" (帰国)! 残ったのは、梅子、山川捨松、永井繁子の3人。 この「三銃士」は生涯親しく、梅子が後に「女子英学塾」を設立する際に, 2人は助力。
梅子は、結局、ランマン家で10年を過ごすこととなる。ランマン家は家計にゆとり
がある文化的な家庭であり、ランマン夫妻は梅子を実の娘同様に慈しんだ。当初
はランマン家に梅子が預けられるのは1年間の予定であったが、期限が近づいた時
期の、ランマン夫妻の書簡には「仮に梅子の留学が打ち切られるようなことがあ
れば、私どもが梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」という
旨が記載されている。梅子自身もランマン夫妻を深く敬慕し、日本に帰国した1882年
から、ランマン夫人が1914年に88歳で亡くなる直前まで、数百通に及ぶ手紙をラ
ンマン夫人に書き送っている。
1878年にはコレジエト・インスティチュート (小学校) を卒業し、私立女学校であ
るアーチャー
・インスティチュート (中学) へ進学。ラテン語、フランス語な
どの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。ピアノはかなり
の腕前に達し、帰国後は何度も人前で演奏した。
モリス夫人との出会い:
アーチャー・インスティチュート在学中の梅子は、父である津田仙の知人である
ウィリアム・ホイットニーの紹介により、1882年2月頃、フィラデルフィアの資産家・慈善家・敬虔なクエーカーであるメアリ・モリス夫人(1836-1924)
に出会う. 夫はフィラデルフィア有数の大富豪であるウィスター・モリス。梅子は、日
本に帰国した後も、モリス夫人と文通を続けた。
モリス夫人は梅子の良き理解者となり、 (1) 梅子のアメリカ「再」留学(1889
-1892年)の実現。 (2) 日本の女性をアメリカに留学させる「日本婦人米国奨学
金」の創設(1892年)。 (3) 梅子が日本で創設した女子英学塾を経済的に支援す
る「フィラデルフィア委員会」の設立(1900年)。等において、主導的な役割を
果たし、アメリカから梅子を支援し続けた。
「再」留学:
1888年に来日した留学時代の友人アリス・ベーコンに薦められ、梅子は再留学を
決意。モリス夫人に手紙で留学について相談すると、モリス夫人は、懇意にして
いるブリンマー大学のジェームス・ローズ(英語版)学長に梅子の受け入れを
要請し、ローズ学長はそれを即諾すると共に、梅子に対する「授業料の免除」と
「寄宿舎の無償提供」を約した。また、「華族女学校」校長の西村茂樹は、梅子
に同校教授としての規定通りの俸給を受けながらのアメリカ留学(2年間)を許可
した。
梅子は1889年7月に再び渡米。当時は進化論におけるネオ・ラマルキズムが反響を
呼んでおり、梅子は "名門"女子大「ブリンマー」 (フィラデルフィア郊外) で生物学を専攻する。 梅子の2回目の留学は、
当初は2年間の予定であったが、1年間の延長を華族女学校に願い出て認められた
(但し無給休職の扱いとなり、代わりに1年分の手当として300円支給)。
留学3年目の1891年から1892年に、梅子は「蛙の発生」に関する顕著な研究成
果を挙げた。 そして梅子の研究成果は、指導教官であるトーマス・モーガン博士(ショウジョウバエの遺伝学で、 1933年 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする (卒業研究) 論文「蛙の卵の定位」( "The Orientation of the
Frog's Egg")にまとめられ、1894年にイギリスの学術雑誌 Quarterly J. of Microscopic Science, vol. 35. に掲載された。
梅子は帰国時に、結婚を勧められたが、それを断わった。「私は米国での経験を生
かして、日本女性の "英語" 教育に一生を捧げたい」と宣言した!
もし、彼女が21世紀に生きていたら、こう語ったかもしれない: 英語は「ペンギ
ンの翼」のようなものだ! 地球の隅々まで泳いでいける。「結婚生活」(出産や育児など) の "足枷" に縛られるのは、まっぴら御免だ!
詳しくは、古川 安著: 「津田梅子 : 科学への道、大学の夢 」(2022年、東大出版会) を参照されたし!
最後に:
2024年に発行予定の 「五千円紙幣」 (=F号券) に津田梅子の肖像が使用される! とうとう "慶応義塾や伝研を創設" した
「福沢諭吉」 (一万円札) 並になった!
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