第三次吉田内閣で吉田は、1年生議員の "池田勇人" を大蔵大臣に抜擢して世間を驚か
せたが、池田は "有能な大蔵官僚" であっても政治家としては駆け出しで、発言に "脇の甘さ" が目立った。
1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産
者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、
所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の
原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めく
くった。
これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞が、翌日の朝刊に「貧乏人
は麦を食え」という見出しで池田の答弁を紹介、これが池田自身の発言のように
伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった。
秘書だった伊藤昌哉は、池田の趣旨は「低所得者が米を食べられるようにすると
して、需要と供給で決まる米の値段に政府が介入するような "米価統制" する気はな
い」ということであった。さらに当時の "米" 事情から、「池田自身も麦飯を食べて
いた」と述べている。それから10年後に、岸内閣が「安保闘争」で総辞職後、池
田が "首相" (1960-1964) に就任した!
我が「亡父」 (京大出身) 曰く「池田勇人さん」(京大出の蔵相/首相) は偉い!
「貧乏人は麦を食え!」と発言して、マスコミに叩かれたが、
我が家も「貧乏人」だったから、白米の代わりに、「消化し易い」パンやウドン (麦由来) を食
べて生き残った。。。我々の選択は 明らかに
"正解" だった!
注:
敗戦後まもない当時、余剰産物である「メリケン粉」 (アメリカ産の小麦粉) が
「ただ」(無料) 同様の値段で、日本へ大量に輸入されていた。 「貧乏人は高額の
「闇米」を諦めて、安価な麦、特にメリケン粉で出来るパンや麺類を食べて、生き
延びなさい」という、「先見の明」にある忠告だった。。。それを "馬鹿な" マスコ
ミが問題視した。
「空中分解」寸前の「岸田 」(無能) 内閣に、そのような閣僚が (殆んど) 「皆無」なのは、極めて悲惨!
("例外的"な閣僚) 河野太郎デジタル相(発言録, 2023年12月):
(自民党の「清和政策研究会」(安倍派)の政治資金パーティー(券)をめぐる問題について)
"政治資金" はきちんと記載をするのがルールだ。 "記載しない" (=脱税) のは、"法律違反" で申し開きもできない。 ここは "きちんとウミを出し切る" ことが大事だ!
池田さんは、癌のため、1964年に首相を辞任したが、その直後に (次期首相候補だっ
た) 河野一郎 (太郎の祖父) が、病死したという歴史を、思い出す人は、恐らく
稀だろう。。。(結局、"佐藤栄作" が池田さんの後継者になった!)。 (両者の) 死因は 「喫煙」による (咽頭) "癌死" だった (癌センターの塚本医師著「癌と戦った昭和史」によれば) ! 丁度、その頃、薬学生だった我々は (真っ黒な肺を持つ) 「喫煙者」の死体解剖をやった!
実は、喫煙の癖は、"太平洋戦争" と密接な関係がある。 軍から"配給"されるものは、「煙草」だけ! 亡父もとうとう喫煙を始めたが、幸か不幸か、間もなく「胃潰瘍」になった! そこで、かなり苦労して、禁煙をやり遂げた! (賢明な) 亡父は「首相」にはならなかったが、(比較的)
"長生き" した。。。
戦中/戦後の食糧難に、麦飯を食べていたのは、実は「貧乏な庶民」だけではない! ("米寿"を全うした) 「昭和天皇」は 自ら白米を節制し、節米料理を摂るようにして
いた。戦前に食料事情が悪化し始めた時点で「半つき米に丸麦混入の御飯」で、晩
餐会を除き、寿司の場合でも白米の使用を許さなかった。戦時中も、この麦飯は
1日一食のみで、あとはパンを食べていた。 "1955年" の時点でも、「配
給の七分づきの米に、丸麦を混ぜたもの」を1日に一食だけで、他の二食はうどん
や蕎麦、蕎麦がき、すいとん、芋類(サツマイモ、ジャガイモ)で済ませていた。
もし仮に、当時のマスコミがもう少し賢かったら、「麦飯事件」は起こらず、"池田
首相"も誕生しなかったかもしれない。。。皮肉な話である!
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