パウル=エーリッヒ (1854-1915) は、ユダヤ系のドイツ人医師で、「組織染色」が
得意だった。従って、いわゆる「美的センス」あるいは「芸術的センス」の持ち
主だった。彼は1908年に免疫学の研究で、ノーベル医学賞を、ロシアのイリア-メ
チニコフと共に分かち合ったが、彼の本当の「偉業」は、その翌年に果たされた!
その偉業によって、彼は、その後、「化学療法の父」として、後世の人々 (特に
創薬研究者) の間で、崇められた。 当時、梅毒という伝染病が世界中に流行して
いた。現代に例えれば、「エイズ」に相当する性病だった。 エイズはHIV と呼ば
れるRNAウイルスが病原だが、梅毒の病原菌は「スピロヘータ」と呼ばれるバクテ
リアだった。エーリッヒ博士は、ベルリン大学病院で、医師として勤務しながら、
何とかこの病気を治す有効な治療方法を摸索していた。
さて、イタリアで、その病原菌が同定されるや、日本の「伝研」から派遺されて
留学中の志賀潔らと共に、この「スピロヘータ」だけを特異的に染色できる色素
を、先ずアニリン色素の中から発見した! しかし、その色素自身には、毒性が
ない。 そこで、有毒なヒ素化合物を、この色素に化学的に結合させて、梅毒菌だ
けを殺す「魔法の弾丸」(特効薬) を発明した。その化合物が出来るまでに、彼は、
合計 606 種類もの化合物を合成した。そこで、その弾丸を「606」と命名した。後
に、その薬は (製薬会社「Hoechst 」により) 「サルバルサン」と呼ばれるようになった。この薬の動物実験を主
に担当したのが、やはり「伝研」から派遺されてきた秦佐八郎だった。 エーリッヒ家は (夫妻共) 「ユダヤ系」だったので、ドイツ国内にヒットラーが台
頭するや、(夫パウルの偉業にも拘らず) 夫人や娘2人共、米国に亡命せざるをえなくなった。。。
このエピソード (英国に亡命したパウルの秘書が綴った"伝記") を、(神田の古本屋で) 立ち読みした途端、我が輩は「画
家の卵」から「創薬への道」に踏み込んだ。もう60年以上も昔の話である。 その伝記に基づいて米国のMGMが「Dr. Erlich's Magic Bullet」(1940年) を映画化したそうであるが、その白黒映画のビデオを、我が輩が最終的に入手したのは、1998年頃のことである。 それは丁度、 我々自身が、WR-PAK18 や CEP-1347 などの「PAK遮断剤」の開発を本格的に開始した時分だった。
"606" は、原理的には、 今流行りの、「PROTAC」 とか 「SNIPER」 (前述) とか 呼ばれている「抗癌
剤」の言わば 「元祖」に当たる。 エーリッヒのこの偉大な功績を讃えて、1952年か
ら「パウル=エーリッヒ」メダル (賞) が設けられ、(抗生物質が専門の梅沢浜夫 ら) 数
名の日本人研究者も受賞している。 面白いエピソードがある。梅沢さん (東大医学部教授) の回想録「抗生物質を求めて」によれば、彼は、戦後、この白黒映画を観賞する機会を得たそうだが、ストマイを発見してノーベル賞をもらった米国
のワックスマンの研究所に留学する前に、英語会話のレッスンを受けたが、その教師は、この白黒映画で、「秦さん役」に扮した "日本人2世" だったそうである。。。
エーリッヒは医者 ("病理学" が専門) ながら、「有機化学」を会得していた。 彼の残した有名な言葉
:「結合なくして、反応無し」(Keine Reaktion Ohne Bindung, No reaction without
binding) は、後世の若者 (創薬を目指す者) に、有機化学に関する知識が、「薬
をデザインする」ために必須であることを強調している。。。
0 件のコメント:
コメントを投稿